物語の中の女の子たちが軽やかに描かれる。
1000年前の女の子たちだって、どうしても欲しいし、許さないし、あれこれ言われるし、抵抗するし、運命を切り開いています。
ドラマや映画や漫画の中に生きる女の子たちのように、いつの時代にも、色んな女の子たちがいて、その生き方のどれもがちょっぴり愛おしかったりするのです。
スタッフのおすすめ
長崎五島列島の合唱部が物語の舞台。
長崎の方言と、中学生という難しい年齢の子供たちの物語に、純粋さと切なさが感じられ、胸がキューっとなります。
映画化もしている作品です。映画と小説、それぞれの違いを楽しむのもよいかもしれません。
フリーマーケットで買った青いスーツケースが
次々に友人たちの旅に同行することになり、
バトンのように幸せと勇気を繋いでいきます。
今は何処かへ行くにも少しの躊躇いを感じてしまいますが、
次に旅に出る時は、青いスーツケースを旅のお供にしたいです。
みなさんは「ねこまた」を知っていますか?
「ねこまた」とは何百年も生きる猫の妖怪のことです。
その「ねこまた」の家族の1年を通した生活を描いたのがこの絵本です。たとえば3月の巻では、人間の世界での入学試験の「にゃうがくしけん」が行われたり、ホワイトデーならぬ「ホニャイトデー」があったりと、なにかと猫がらみの言葉で日本の四季が描かれています。
細かくかわいらしい絵が描かれていますので、ぜひじっくりと目を通してみてください。
森の動物たちは寒い冬をどのように過ごしているのでしょうか。
くま、こじか、きつね、うさぎ・・・・
それぞれ自分の暖かな巣穴でぐっすり眠ります。
その様子を女の子が観察しています。
そして、その女の子もお家で毛布にくるまって眠っています。
冬の寒い時期の幸せを感じる、素敵な絵本です。
ひつじのロッテは、おてんばな子羊。切り株や岩をぴょんぴょん飛び越えて駆け回っています。
夜には、こっそりお気に入りの場所にでかけてお月見したり。
そんなきままなロッテが羊飼いのおじいさんのピンチに大活躍します!
いざという時に勇気ある行動がとれる。そんな人周りにいませんか?自分もなってみたいと思いませんか?
思い切りの良さが気持ちいい、小さな子羊の物語です。
「かみさま」なんてこの世にいない、と思い暮らしてきた「のら猫」が一匹の老犬に出会います。
出産を控え、おなかをすかせていたのら猫に、その老犬はわざと自分のご飯を残して分けてくれていました。
のら猫は最初は気づきませんでしたが、やがて子どもが生まれ、ある日そのことに気付きます。
そして「かみさま」の存在にも・・・。
ラストには心温まる光景も。寒さが増す季節の今、読んでいただきたい絵本です。
ベーコンの絵画から何か霊的なものを感じるのは、彼による全身全霊のエネルギーからくる震動なのだろうか。
作品から生み出された内なる存在と、その断片から生み出された直観、キャンバスという闘技場としての効果、生の喜び(=joie de vivre)。そして、躍動感と生命感が連動する絵画は、光と影との対比が浮き立ち、それはまさしく絵画による心の翻訳といえるだろう。イメージを他人に委ねる非物語性は効果的な印象を心に残し続ける。
彼の絵画表現は、そこにある絵画と精神のゆるぎない力強さが軸となっているのだろう。強烈な印象の残像は、画家として、詩人としての、心象の受け渡しなのだろうか。デジャヴのような感覚を繰り返し引き起こす彼の作品は、魔術のようにも感じられる。
動き出すことのない一瞬。再び動き出す、そこからの一瞬。
写真という世界の不確実性は、私たちに予測をさせてはくれない。偶発的に発生する日常に収まりきらない奇蹟は、写真に切り取られた瞬間ではなく、それ以外に発生することも多いのかもしれない。美しきものと汚らわしきもの、現在と未来、現実と幻想のちょうど裂け目で錯綜しながら、その一瞬をとらえていく。ファインダーからはみ出す瞬間、人々と街は変貌してゆく。それは、秒針が動き出す合間を探し、カメラとともに放浪しているようにも見える。無機質でさりげない日常の中でも、時間と空間は絶えず変化し、進んでいく。
写真は、この世界の一番近い場所にある異世界だ。その仮想都市、平面都市の中で、魂が光りたゆたう街の記憶の断片は、シャッター音とともに眩しく焚きつけられてゆく。
自らの運命を知りつつも、滅びの道を選び、非運を受け止める力。それも魔性という性のひとつなのだろうか。
悦の世界に狂乱しながらも、なお、飽き足らぬ表情を浮かべる、華々しき魔性たち。社会的な闇をそのまま描き続けるのではなく、物語として伝説を残した1枚、1枚から感じられるのは、無言、孤高、憤怒、そして、倦怠。無邪気さと奔放さは、時に異性を抹消しかねない危うさを持ち合わせている。
魅惑の表情にひきずりこまれ、溺れ行く男たちの顔から、どこか安らぎの感情が漏れ出て感じられるのはなぜだろうか。その魅惑に溺れることに葛藤しながらも、互いに求めあうことは、果たして許されるのだろうか。男たちを翻弄させる、上質な恋慕のプロフェッサーたちは、画を見るものをも魅了し、静寂な闇を打ちつけてゆく。