【料理フェア3月:楽ちんごはん】
忙しい時に、手軽でとても便利な料理といえば、やはり炒めもの。
メイン材料2つだけで作れる、シンプルでボリューム満点、さらに、ごはんにかけてもおいしい!
このワンプレートがあれば、ごはん作りはほぼ完了です。
材料の組み合わせ、切り方、味つけのしかたのひと工夫で、フライパンひとつで作ったとは思えない、あっと驚くごちそうができます。
スタッフのおすすめ
福井の田舎の弱小バレーボール部に、東京の強豪校出身のワケあり選手がやって来た。
それをきっかけに全国を目指す日々が始まり、とうとう春高初出場を決めた福井代表・清陰高校男子バレー部。
全国の強豪を相手に、人の心が分からずコミュニケーションが苦手な天才セッター灰島と、ずば抜けた身体能力を持ちながらもヘタレのエース・黒羽の一年生コンビが、築き上げてきたチーム力で頂点を目指す。
シリーズ史上最も熱く、最も泣ける春高編。彼らの青春の輝きを感じてください。
母親に染められたバサバサの金髪も、流行りの安っぽい洋服も大嫌い。
同級生の男の子に名前をからかわれ落ち込んでいると、こんな言葉が聞こえてきます。
「ステキな名前じゃない!赤毛のアンの親友の名前もダイアナって言うのよ。」
シングルマザーの母に育てられたダイアナと、裕福な家庭で育ち品行方正な彩子。
育った環境が全く違うふたりは、本が好きというたったひとつの共通点と、真逆の価値観からお互いに惹かれあい、唯一無二の親友になります。
現代版赤毛のアンとうたわれるこの作品は、決してきれいなだけの話ではなく、現実社会の問題も鋭く描かれています。
「自分にかけた呪いは自分にしかとけない」自身に課せられた運命や悲劇に必死で立ち向かうふたりの姿に、きっと勇気をもらえることでしょう。
読み終えた後、ぎゅっと抱きしめたくなる1冊です。
密林の中を逃げる最中に「ジェイク」と出会った記憶喪失の「僕」。
何も持たない彼らが、新しい人生を手に入れるべく必死で戦い生きていきます。
貧困、ワーキングプア、家庭内暴力、ネグレスト、外国人労働などの社会問題にも触れられ、桐野作品特有の残酷な世の中と醜い人間をまざまざと見せつけられながらも、若者たちの軽薄さと無邪気さにページをめくる手を止められず、自分もふたりの友人となり一緒に戦っている気持ちにさせられます。
彼らは何から逃げ、どこへ向かうのか。結末には胸が震えます!
柳美里さんが降り立つ上野駅公園口は、極めて今の時代にあったstationだったような気がする。
寂しさと孤独感の中で、今の時代と1963年がすれ違いながら、静かに心に共鳴してくる。
時間が欠けていくということは、家を、そして、家庭や家族をも失うことなのか。
人間は、本来持っている孤独から免れようとすると、より孤独感が自分に押し寄せてくる。
時間の欠片と自分の欠片を毎日失いながら、それでも生きていかねばならない。
そして、鏡を見た時、その失った時間の結果として出来上がった自分と対面し、思わぬ自分になっていたことに、ハと気づく。
大きな時間の流れや世界は、いつも何か絶大な力を伴った時間を送り付けてくる。
それが結果的にどんなギフトになり得ようと、私たちは受け取らなければならない。
そのギフトは、これからという時代と、自分の一部なのだ。
あの音が近づいてきたら、あの、生暖かい風に吹かれ、煽られ、許されることを思いながら、こうして生き続けるべきなのだろうか。
「幸」という言葉を人生で見つけた時の、凄まじく強い光の方向に進む姿の凶暴さ。
光、とか、幸福、という壁に囲まれた概念は、わたしたちに何を教えてきたのか。
不信や痛み、苦痛と屈辱。それらに屈せずに生きねばならない、という挫折感なのかもしれない。
うーちゃんという、「かか」から生まれるべくして生まれたひとつの人間、性。
それが、自分という肖像から幸福を目指し、ひとつの幸福感を幸福へ導くほどに、ひとつの姿と命は、ぬかるみの沼へと入っていく。
人間ひとりにはいくつかの命があり、それは、偶発という意味付けられた運命の中、そしてさらに、さまざまな出会いの中で分け合っているのではないだろうか。
命の集合体は自分のDNAであり、自分の受けた傷の結晶であり、自分の性であるのだろう。
そして、母体として愛するということは、闘いのような愛という病から、人間の中心にある一点の孤独と共に産み落とされ、立ち上がり、歩み出す姿なのだと私は思う。
女性であることは、まるで、職業としての性に思われていたのではないか。
結婚、そして、出産が、かつて女性にどれだけの負担をかけてきたのか。
その重荷を抱えて、従来の形に嵌められた「幸せ」なライフスタイルをこなさなければ、まるで、不幸な敗北者とでも言われるような視線を送られていたのでは無いだろうか。
女性の幸せが、結婚と出産に意味づけられ、一緒になった男性像に託されていたことは、これまで女性を苦しめてきた根源である。
そしてそれは、塗り固められた幸福像と共に、幸せにならなければならないという義務をもたらしていたとも言える。
第三者から見た幸福と、感情から湧き出てくる幸福感は、全くの別物だ。
幸せは、ならなければならないものでもなければ、確証された一生の幸せの形や肖像は、最初から存在しないはずだ。
これからの女性の幸福は、もっと多種多様なはずだ。
そして、ひとりひとりの心から湧き出た幸せを、感じながら生き、ライフスタイルの設計を自転しながら積み上げ、形などなくとも、毎日輝く姿を提言していくことで、未来には更なる光が射すのかもしれない。
ギレルモ・デル・トロの昆虫、機械、そして、クリーチャーに対する偏愛主義は、包み隠さずオープンであるからひとつの美学として確立されているのかもしれない。
夢の世界の続きをギミックとして、具現化し続けるギレルモのスケッチ力は途轍もなく偉大で幻想的だ。
ロン・チュイニーやボリス・カーロフを描き込んだギレルモ・デル・トロという鑑賞者が、表現者として世に姿を現したときに、そのサイレント映画での恐怖感、凶暴観、沈黙そのものが打ち破れ、一気に話しかけてきたからこそ、monster・creatureたちは凶暴さをますます物語っているのである。
芸術的幻想映画に怪奇映画の凶暴さを盛り込みながら、沈黙の世界の熱狂を盛り込んでいるからこそ、彼の愛執は強靭な精神を伴っているのだ。
創作という父であること。それは、いつも残酷な運命を、世に残しているかもしれない。
だが、創った彼には、愛があった。
そして、スクリーンに蘇るcreatureたちは、美しく、映像とともにcinemaの中に生き続ける。
横尾忠則にとっての、コラージュというのは、焼き尽くす、エネルギーに対して、眼窩の奥に、心の深淵を置く、創造の窓のようなものではないだろうか。
絵画というものに、映画のように、fineという文字は、浮かんでは来ない。しかし、絵画のfineは、どこにあるのだろうか。その見極めが、横尾忠則のコラージュ、肉体的五感である。人物パーツという試みだったのではないか。それを置くことによっての、絵画という物語にfineという、見極めの窓を、おいているのではないか。死という考えに、始まりと未完という窓をつくることも、また、コラージュであり、肉体的五感を、置く事だったのかもしれない。そこに浮かび来る夢のような、世界と現実世界が、入り混じる、幻想の裂け目。「Y字路」に続く、そのふたつの本当の夢の続き、または現実を知っているのは、横尾忠則ひとりだったりするのかもしれない。
水玉模様にひたすらこだわる草間彌生の思想は、その水玉模様に似て、孤独で、無口で孤高である。
消滅という表現は世界との融合であると思うから、自分が幾百万の存在である水玉の私を見つけた草間彌生の思想は、その消滅という永遠性とループ。
始めも終わりもない絵画という世界の中で、さらに、はじめとおわりを示さない水玉模様というものを表現した草間彌生は、女性がもつ独特の混沌と暗雲の世界から生み出されたもののように思える。
キャンバスの中に無限を入れ込むこと、消滅を入れ込むことは、その点に溶け込む精神がどこまで孤独に耐えられるかとの闘いのような気がした。
葛藤とは怒りをぶつけることではなく、もしかしたら・・・と静寂の中消えゆく私を数え、描き込むような、その忍耐性なのかもしれない。